2009年09月04日

陰謀と知的探求に関する考察


[知識]は人を不幸にする。知識は物事の本質に対する説明的なツールであり、人類はそれにより恩恵を受ける一方で、その偏重や多寡に起因する悲劇を繰り返してきた。知識がオーバーフローを起こし人々は迷い、囚われ、孤独になる。


[知恵]は人生を豊かにする。悟性と即応的な環境への順応が互いを育み、文化として共有された洞察と順応の形式は知恵の源泉となる。その源泉が多種多様である限りにおいて、知恵は根源的な欲求としての目的を人に授け、他者との調和のもとで人をして人生に価値を認めさせる。

知識により、人は遅かれ早かれ不自由な状態におかれることになる一方で、人は元来、知恵によって積極的な自由を得ることができる。

しかし、現実には、知識は人に可能性を与えるものとして奨励され、知恵は説明不可能なものとしてどこかへ置き去りにされたまま失われつつあるように思えてならない。知識は、生活を守る上で必要不可欠なものとして知恵にとってかわり、制御不可能といえるほど増殖を続け氾濫している。

知識の氾濫といっても、これは単に専門性の壁が横断的な評価・統制を難しくすることを意味するのではない。[知恵]からかけ離れた研究が乱立し、知的探求の成果がどういう形で結実するかは、利用・応用する者の倫理や自由意志によるところが大きい、ということだ。

明確な価値判断に基づかない多くの研究が開始されてきたが、これは立法事実のない法律が制定されるのと同じことで、施行後はコミットするもののさじ加減ひとつなのだ。良し悪しを評価のするための、人類共通のモノサシを知識から得ることは、そもそもできない。(教育によってだれかが押し付けてくる画一的なモノサシでははかりえない)

陰謀であれ、悪魔の囁きであれ、欺瞞であれ、落とし穴は、いつも、ここに、潜んでいる。私たちは、何と引き換えに何を得るかについて思慮深いとは到底いえないし、知恵も働かない。当然の理として、魑魅魍魎が跋扈し、いたるところで腐敗が進む。腐敗臭が鼻をついて初めて気づくのだ。これを一笑に付してしまえば、後はない。

知恵なき知識が重宝された戦後教育。知恵も知識もないゆとり教育。「誰にも邪魔されず奔放」という消極的な意味でしか自由を認知していない大人もいまや珍しくない。そして、いまや露出狂と暴力と非現実が娯楽になった。私にとって陰謀を題材に議論することは、知識偏重の時代に異を唱えることに等しい。しかし、私はボヘミアンなどではなく、あくまでも精神の貴族であり、諦観や退廃とは無縁である。

社会のために人間のあり方を問いつつ人間のための社会があるべきを問うことなくして知識も知恵も真に意味をなさない。

陰謀を題材に議論をすることは、単に、「たられば」や可能性、機会費用の類を案じるのではなく、どこへ向かうべきなのかを立ち止まって考えることに他ならない。これはすなわち、知恵の源泉をたよりに、積極的自由の名の下で封印された人類の叡智を解き放つことでもある・・・人類の自由と健全な発展ならびに安寧なる世界の繁栄にむかって。
posted by 精神の貴族 at 12:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 陰謀と真実の狭間で | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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