2009年08月09日

[陰謀]と[陰謀論]


「実体の無い陰謀論」と「陰謀そのもの」の区別

 
「陰謀論」http://www.dismas.jp/aff/index.php?title=%E9%99%B0%E8%AC%80%E8%AB%96&affid=ZUXCsJR8IG


「陰謀」
http://www.dismas.jp/aff/index.php?title=%E9%99%B0%E8%AC%80&affid=ZUXCsJR8IG

 
普段耳にする陰謀の類は、部分的に事実を含んではいても不正確で誤解を招きやすいものばかり。特定の集団をスケープゴートとして位置づけ、罪をきせたり責任転嫁することで社会不安を紛らわせようという意識が働きやすく・・・結果として不安除去装置という便宜上のものでありながら、結局は目的に適わないものでしかない。

そういう前提の下で、陰謀論と陰謀の本質的な区別をなくすことを教育によって奨励され、これらを混同し陰謀のレッテルをはり蔑めば一人前の世の中に私たちは生きている。ジャーナリズムやマスコミの窮状を嘆くことや、ゴミと侮蔑することに限界を感じるからこそ、戦後教育の生んだ欠陥である諸君に告ぐ。区別せよ!



もちろん陰謀論の危険性についても思慮深くあるべきである。主として
、伝言ゲームのように語り継がれていく過程で誇張されたり変質したりするものであるということについてである。また、陰謀論が社会に浸透する大きな要因として、政治不信や経済の混乱という形で噴出する社会不安が大きければ大きいほど(伝言ゲームが行われやすい土壌が整いやすく)陰謀論がもたらす社会的インパクトもまた甚大なものとなることを歴史は証明している。

自滅ほど愚かしいものはないが、それが内発的なものであるのか外部要因によって意図的に誘発されたものであるかは別に論じるべきであるとするのが主旨であるが、
ここで重要なのは、たとえばホロコーストがあったにせよなかったにせよ、同様の扇動に私たちは常にさらされているということだ。

尤もドイツの人々が戦後処理のため、道義的な罪と法律的な罪とを区別しナチズムに全てを押し付けたことが明白になっているということ以上は論じるべきでないと思っているが、この明白な事実ですら激烈なナチ批判によって論じることをタブーとする向きさえあるのが現実である。

伝言ゲーム的性質によって派生した自滅をもたらしうる陰謀論の性質によって[陰謀論の蔓延する社会は未成熟][陰謀論者は未熟者]と断罪されるが、とってつけたような解釈に満足し、マスコミの無知蒙昧な言説を許すほどのゴミとして生きている諸君が目覚め、歴史の深遠さを知り、時代の本質を掴み取るほかに、時代を切り開いてゆくことは出来ない。たとえ陰謀論者と揶揄されようと、そうするほかないのだ。

陰謀論を吟味する意味や陰謀の存在を否定することで、陰謀とみなす十分な論拠があっても実際的な意義までも無価値とする詭弁が散見されるたとえば、かの有名なカール・ポパーなどの主張をかりて反証可能性のない陰謀論は非科学的でとるにたらないものとされ陰謀の実在を否定する根拠とされる。これにより、陰謀という懸念は取り越し苦労とみなされる。酷い場合は社会を混乱させるものとみなされ弾圧される。
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私は科学的な姿勢を重視するし、科学の優位性についても理解しているが
現代の科学で全てが説明できるとは思ってもいないし仮説と検証を繰り返すことによってのみ保たれる科学の優位性はいわば、科学至上主義というある種の信仰であり、砂上の楼閣であると思っている。科学は真実に迫る確実な方法論であることに疑いの余地はないがどこまでいっても科学的説明によるものでしかない。これは同時に「現代科学の限界」でもある。
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陰謀は陰謀でしかない。外部者が知りえないはずの計画であり、断片的な情報を整合性をもって再構築することでしかその実態を伺い知ることしかできない。その実態すらも虚像でしかないから「陰謀」とみることを、被害妄想だとかヒステリーとみなし選択的思考の結果として切り捨てるのは実に容易いことだ。

しかし、そもそも陰謀の実在を問うこと自体がナンセンスなのだ。陰謀とみなすことであれなんであれ、問題視すべき事実があれば実際的に対処すべきとする姿勢が幾重にもあってしかるべきなのであって陰謀とみなすことではじめて提起される問題意識に価値がないわけでは断じてない。

黙殺し、とりとめのない与太話を繰り返し、大衆を扇動するのはどこの誰かといえば、非難されてしかるべき対象が逆転するのだから、実にひどい冗談だ。

陰謀は陰謀でしかないが、真実もまた真実でしかありえない。人類の行く末に関わる問題であればあるほど、作り物の事実をねだるのではなく、社会の趨勢にさからってでも、各個人が深い洞察によって時代の本質をつかみとるほかない。

それらが時代にうねりを生むとか、歴史の紡ぐ真実に導かれることで人類の叡智をえるとか、なんともロマンチックでいて傲慢な考え方を良しとはしないけれど
「不正はなしにしろ」と求め
「清く」「賢く」生きることを望むことに意義があるのだ。それが「陰謀」とみなすことにはある。

それは、安穏と他者の屍骸の山の頂で贅沢してきたことをゴミであり餓鬼畜生であるあなたがどう思うかにかかっているのだ。


また、「陰謀」とみなされるものの全体像や、
目的がどのようなものであるかという議論は別として、取るに足らない偏見とみなされ指弾された「虚像でしかなかったはずの陰謀」が時を経て、現実となってきた。それも1つ2つまぐれ当たりという次元ではなく、具体的に言及すれば枚挙に暇がないほどである。陰謀は確かに存在する。広く知られることとなった数々の陰謀に共通していえることとしてそれらが伝統によって培われる一般的倫理規範から逸脱しており、良識的な許容範囲の変化を迫るものであるとみなされているという点だけはここで確認しておきたい。

ただ、現時点で上述の変容を迫る側面が即座に絶対悪であると考えているわけではない。伝統にも良し悪しがあり倫理規定は偏見の裏返しでもある。目的如何というわけだ。というのも、「陰謀」は様々な価値観の軋轢が生じていることをそれ自体が意味するが、同時に軋轢の副産物でもある。目を凝らし耳を澄ませれば本質が少しずつみえてくる。混沌とした現代生活において何が求められ、自分が何を求めているのか知ることもできるだろう。

なにより、将来に向けて警鐘を鳴らす微かな声をしっかりと聞き分けてもらいたい。無味乾燥な陰謀論に紛れていても。

 
posted by 精神の貴族 at 23:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 陰謀と真実の狭間で | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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